それは台風予報の前日。
なんだか朝から歯車が合わないようなことがおおくて、空も心もなんだかざわざわしていたように思う。
いまおもえば、だけれど。
野良仕事を終えたら、動物たちを寝床に戻して、晩ごはん。
夕暮れどき、わが家ルーティン。
いつのまにか日が落ちるのがだんだんはやくなっている。
暗くなっちゃう。
とーちゃんは田んぼの横で草を食べているぼんちゃんを迎えにいく。
「ごはんだよー」
外に出ると、ヘッドライトがゆらゆら光って近づいてきた。
とーちゃんが私の肩にうなだれるようにして顔をうずめてきた。
ヘッドライトが眩しくて、なんだかよく見えない。
「なになになに、ちょっと笑」
「ぼんちゃんが・・・」
なにが起こったかすぐにわかった。
「どうして?」
「わからない・・・」
ぼんちゃんが、死んだ。
ぼんちゃんが、死んでしまった。
ぼんちゃんが、いなくなってしまいました。
田んぼの畔で、いつものようにおなかいっぱい草を食べて、
はよ迎えに来いよと言わんばかりの顔でお口をもぐもぐさせておすわりしているぼんちゃんではなく、
その日見た姿は、ガスでお腹がパンパンに膨らみ、カチカチになって横たわっている
エネルギーがもうそこにはない、ただただ空っぽの抜け殻でした。
牛や山羊、羊などのいわゆる反芻動物は、転倒などで長時間横倒しになって起きあげれなかったりすると、
お腹にガスが溜まり、呼吸困難や循環不全が起こるそうです。
死因はおそらくそれではないか、と専門の方へのヒアリングでわかりました。
牛が放牧された美しい草原の景観は阿蘇の見どころですが、
やはりなんらかの転倒事故で、牛が死んでしまうことも多々あるそうで、
ここ最近は牛を牧野へ放牧することをやめてしまう牛飼いの人も多いとききました。
牛舎の中で、効率的にえさをやり、事故を回避することが善なのか、
事故や怪我のリスクを抱えながら、のびのびと自由に草原へ放つことが善なのか、
正解は、わかりません。
たった1頭ですら命を守れなかった自分たちの不甲斐なさに、心をどう整理したらいいか、
こうしてブログに綴るまでだいぶ時間を有してしまいました。
みなさんは動物を飼育したことはありますか?
犬や猫、小鳥、虫、お魚。
人間同様とまではいかないけれど、感覚的にコミュニケーションが図れますよね。
豚、牛、鶏だって、同じです。
羊のぼんちゃんも、そうでした。
わがままで、甘えん坊で、頑固で。
メーメーと、何かにつけて主張するわが家でいちばん世話の焼ける子でした。
スーパーにパック詰めで並ぶ動物性食品も、当たり前にもとは動物です。
わたしたちは命を食して、生きている。
ぼんちゃんが死んだ前日も、わたしたちは肉を食べていました。
不慮の事故で亡くなったぼんちゃんを食べて供養しようとは、
やはり思うことは出来ませんでした。
躊躇なく食べてだき含めてやろう、となれるくらい真剣に生きることができたなら。
わたしたちは形見に毛を少し刈るくらいで精一杯。
まだまだ、まだまだです。
循環を考えて生きることは、死の向こう側を考え生きること。
死を恐れ、忌み嫌い、必要以上に避けようとしてしまうことは、
生きることの本質からずれてしまう。
安心、安全、便利、快適。
不安、危険、不便、不快。
どちらか一方に偏ることなかれ。
陰陽合わせてはじめて、
「仕合わせ=幸せ」
なのだとおもうのです。
生も死も日常から消えて、リアルさから遠ざかってしまった現代の暮らし。
快適さや便利さばかりを追求して、行きつくところまで極まっているこの時代。
わたしたちは、動物たちや植物たちの命をもらって生かされたその命を、
どう使って生きているのでしょう。
循環とはなんでしょう。
なぜ阿蘇の草原を美しいとおもい、失くしたくないとおもうのでしょう。
なぜ誰かの笑顔を喜びに感じるのでしょう。
正解の答えなんて、ないんです。
人間は、その知恵をつかい、問いつづけ、考えつづけ、行動し、
与えられた命をせいいっぱい生きるのみです。
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にわとり舎
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阿蘇の里山の水源近くの古民家をセルフリノベーションしながら、薪をくべ、田畑を耕し、ときどき麦を編みながら、動物たちとともに暮らしています。あたらしい時代のあたらしい生き方を実践すべく、土に根を張り、ヒトも自然の一部として、日々をおもしろがって生きています。